鶏口牛後な日々

心の赴くまま、やりたいことを仕事に。

何かもう一枚皮が剥ける必要があるなと感じている今の気持ち

タイトルの通り、なのですが、言語化を試みてみます。

そうすることが、実際にそうなるのに1mmほど近づけるような気がするからです。

もっと、気持ちをフラットに、穏やかに、落ち着いた状態で、人を恨んだり、人を羨んだり、お金が欲しいとgreedyになったり、お金がなくて眉を潜めて将来を思案したり、嫌な人がいてそれに心を囚われたり、過去の嫌だったことを思い出して苦しんだり、周りの人との関係ですごくストレスを背負ったりすることを越えて、その先に、周りの人を信じていて、悪く思うこともなく、先の未来を明るく希望を持って前をみて、姿勢を正して、このハワイのbreezeに吹かれて気持ちのいい爽やかな心を常に持って、missionに疑問を抱きすぎず、人を悪く思わず、3Dのこの世界を自分の色眼鏡や感情・気分による視界狭窄によって切り取られることなくあるがままに見て、この風にやなことは全部流れて、せせらぎに流されるように、周りとの関係を保ちながら、仕事や取り組みを進めていけたらいいな、と思いました(長いですね)。

blogやnoteで本人が前に出て、ある意味ある程度曝け出す行為ができる人はすごいな、そしてそんな文章で人を惹きつけられる人はすごいな、と思いました。

透明というか。透き通る。

それができたら、世界と対話していけるような気がします。

私はそれがなかなかできてないなと、同時に思います。

とにかく恥ずかしいし、自分の汚い部分を曝け出すことには抵抗があります。

それでもいいのかもしれないが、ただ、前よりは、だいぶそのギャップに苦しむことが減っています。一段階ほど。

まず、周りのことを悪く思うことが減りました。みんなそれぞれで。いろんな考え方があるということが前提にあるからかもしれません。

あと、感情や気分の色眼鏡や、視野狭窄を意識して、ある程度それをとっぱらないながら、物事を見ることができるようになってきた気がします。(まだ無理な時期もある。体調や忙しさにも左右される)

少なくとも、以前はもっと悪口を言っていた。あれは、間違っていたと思います。

もう一段階上に行くためには、自分と周りとの境みたいなものを、もっと薄くする?必要があるのかも?

ある意味、曝け出すということなのか? だとすると、やはりまだ怖いような気もします。

まだまだいろいろわかりませんが、前向きに進んで行けたらいいなと思います。

汚い部分が、浄化されて、もっと透明になれたら、曝け出すという意識も無くなるのではないかな? と思うのです。

今は、まだ自分の内面に、自分で目を潜めたくなる何かが含まれています。

そこにちゃんと向き合って、乗り越えられたら? 内面を「曝け出す」という感覚ではなくなるのかも。

自分が公共物になるみたいなイメージなのでしょうか。

Twitterとかで、毒を吐いたり、強烈な意見を言ったり、しつつ、フォロワーが数万人とかいる人。

それとはまた違う気がします。

そうなりたいわけではないのです。

なんなら、フォロワーとか数十人とか、知っている人の中でも少なくてもいい。

でもその人たちに向けて、本当に気分のいい、自分の思いなどを、前向きにまっすぐに発信していけるような状況になってみたい。

状況になる、というか、それが抵抗がなく、自分の活動の延長にあり、自然な感じに、なれば嬉しいというか。

すぐにはなれないかもしれませんが、そうなりたいな、と思いました。

そうなれれば、なんとなく、自分のやりたいことや、人とうまい距離で上手く付き合っていくということが、今よりずっと楽にできるようになるのではないかな、という予感がします。

起業に失敗は必然だからこそ、大事なのは◯◯だ|坂本 直樹|note

とにかくそう思った端緒になったブログ記事をおいておきます。

いつかジャージャーさんには連絡をとってみたいなあと思いました。